わたしたちはインジウム化合物について実験動物を用いた慢性影響試験および作業者の追跡研究に取り組んでいます。
それらを基に包括的にインジウムの肺障害と肺発がんの病態解明を行っています。
レアメタルであるインジウムは、国内需要の約9割がインジウム・スズ酸化物 (Indium-tin oxide : ITO) として使用され、パソコンやテレビのフラットディスプレイ、タッチパネル、携帯電話用の液晶ディスプレイの透明導電膜に用いられています。
環境医学分野(衛生学)では1990年代より、気管内投与法を用いてインジウムの肺毒性に着目した動物実験を行ってきました。
インジウム作業者の健康影響に関する知見が不足していることから、インジウム作業者の健康調査を継続して行っています。
レアメタルであるインジウムは、国内需要の約9割がインジウム・スズ酸化物 (Indium-tin oxide : ITO) として使用され、パソコンやテレビのフラットディスプレイ、タッチパネル、携帯電話用の液晶ディスプレイの透明導電膜に用いられている。液晶ディスプレイのほか、低融点合金、ボンディング用途、ヒューズ、歯科用合金、化合物半導体、電池材料、太陽電池などにも含まれ、需要が急増している。
1990年代より、当研究グループでは気管内投与法を用いて、インジウムの肺毒性に着目した動物実験を行ってきた。経気道性に投与したITOやインジウムを構成元素にもつ太陽電池素材である銅-インジウム-ガリウム-セレン(Cu-In-Ga-Se:CIGS)は肺障害を惹起した。一旦、肺に取り込まれたインジウムの体外排泄は非常に遅く、血清や臓器におけるインジウム濃度が経時的に増加し、長期間にわたり体内に蓄積していた。
インジウムの毒性に関して、1990年代半ばまで知見が極めて少なかったために特段の注意が払われていなかった。2001年にITO微粒子の吸入による間質性肺炎死亡例が世界で初めて我が国で発生した。2003年に当研究グループと筑波大学が症例報告し、インジウムによる肺障害が注目される契機となった。
インジウム曝露と肺障害の因果関係を明らかにするために、インジウム作業者の健康調査を慶応大学と共同で実施してきた。インジウム作業者では血清インジウム濃度が非作業者に比べ高く、血清KL-6、SP-DおよびSP-A(いずれも間質性肺炎の指標)の値も有意に上昇していた。一連の結果からインジウム化合物粉塵の吸入によって間質性肺障害が惹起されることを明らかにし、職業病である「インジウム曝露による肺障害(インジウム肺)」の因果関係を確立した。その後の追跡調査により、間質性肺炎に比べて肺気腫の病態がより強く進展することが明らかになった。インジウム作業者の健康影響に関する知見が不足していることから、インジウム作業者の健康調査を継続して行っているところである。
当研究グループによる研究成果より、
① 日本産業衛生学会よりインジウムおよびその化合物の血清インジウムとしての生物学的許容値3μg/Lを勧告(2007年)
② 厚生労働省より「インジウム・スズ酸化物等の取り扱い作業による健康障害防止に関する技術指針」の通達(2010年)
③ 同省により特定化学物質障害予防規則等が改正,インジウム化合物が特定化学物質の管理第2類物質・特別管理物質に指定(2012年)の法規制の動きが行われ、職業性曝露による肺障害発生の未然防止につながった。
今後、実験動物を用いた慢性影響試験および作業者の追跡研究により、包括的にインジウムの肺障害と肺発がんの病態解明を行う予定である。
明治37年5月24日勅命151号をもって衛生学1講座が設置認可され、同年9月15日宮入慶之助が初代教授に任ぜられた。明治45年5月29日勅命129号により衛生学は2講座となり、第一講座は宮入教授が、第二講座は大正2年4月8日に衛生学助教授小川政修が教授に任ぜられて担任した。
また同年4月9日狂犬病研究室が新設され、衛生学教室の附属としてその教授が同研究室の監督を嘱託されることとなった。大正12年1月19日勅命第140号により衛生学第二講座は細菌学講座に改められた。大正14年9月9日衛生学教室中廊下から発火、衛生学および法医学教室は渡廊下の一部を除いて全焼し、細菌学教室も類焼によりほとんど焼失した。大正14年9月30日宮入慶之助は停年退官し、同年11月9日名誉教授の称号を授けられた。同年10月7日大平得三が後任教授に就任した。
昭和13年12月10日太平教授は医学部長に推されたが、昭和14年11月10日医学部長および教授を辞し、11月15日満州国民生部技監として赴任し、昭和15年9月20日名誉教授の称号を授けられた。同年9月26日京城帝国大学教授水島治夫が衛生学講座担任となった。同年12月10日勅命第878号により、民族衛生学殖民衛生学講座が新設され、昭和16年1月15日水島教授が分担した。昭和17年4月18日衛生学講座担任の水島教授は民族衛生学殖民衛生学講座担任となり、衛生学講座を分担した。昭和17年12月19日助教授大坪潔己が教授に就任し、衛生学講座を担当した。
戦争激化に伴い、昭和20年7月教室は浮羽群御幸小学校に疎開したが、終戦により同年10月復帰した。昭和21年3月勅命第155号により民族衛生学殖民衛生学講座の「植民衛生学」の5字が削除されて、「民族衛生学」講座と呼ぶことになった。昭和22年3月29日大坪教授が願により退官し、同年12月10日鹿児島医専教授宮崎一郎が本学教授に任ぜられ、衛生学講座を担当した。昭和26年4月1日寄生虫学講座が新設分離され、同年8月9日従来の衛生学、民族衛生学両講座を合わせて衛生学教室とし、それぞれ第一および第二講座となった。それに従って、同年10月一日宮崎教授は新設の寄生虫学講座担任となり、同年12月16日助教授猿田南海雄が衛生学担任教授に昇任した。
昭和29年9月9日文部省令第23号により第一および第二講座の名称が改められて、「衛生学」および「公衆衛生学」となり、衛生学講座は猿田教授、公衆衛生学講座は水島教授が担任した。助教授倉恒匡徳は衛生学講座に、助教授大平昌彦は公衆衛生学講座に配属された。
昭和34年10月15日助教授倉恒匡徳の辞職に伴い、同年10月16日助手山口誠哉が後任の助教授に任ぜられた。昭和36年12月16日助手石西伸が講師に任ぜられた。昭和40年5月1日山口助教授が久留米大学医学部教授(公衆衛生学)に任ぜられた。同年8月一日石西講師が助教授に昇任した。
昭和45年3月31日猿田教授は停年退官し、同年4月25日に名誉教授の称号を授けられた。昭和45年9月1日石西伸助教授が教授に昇任し、衛生学講座を担当することとなった。昭和46年4月1日講師児玉泰が助教授に昇任した。昭和48年4月から1年間の予定で当教室建物の大改装が行われた。昭和49年4月1日講師国武栄三郎は福岡大学医学部助教授(衛生学)に転出した。
昭和53年6月1日着任した。その後昭和55年6月15日同助教授は九州大学附属癌研究所細胞部門(現在九州大学生体防御医学研究所)助教授に転出した。
昭和58年10月3日石西教授は労働衛生の分野で多大な功績に対し労働大臣より「労働大臣功績賞」を授与された。昭和63年11月1日講師稲益健夫が助教授に昇任した。平成3年3月31日石西教授は停年退官され、同年5月7日に名誉教授の称号を授けられた。また、同年4月一日稲益助教授は福岡大学医学部助教授(公衆衛生学)に就任した。
平成4年1月1日井上尚英産業医科大教授が当講座教授に就任し、衛生学講座を担当することになった。
同年4月一日久永明講師は福岡県立大学教授に就任した。平成6年4月16日槇田裕之液済会門司病院内科部長が、当講座助教授に着任した。平成11年4月1日大学院重点化により、医学部衛生学講座は大学院医学研究科環境社会医学専攻社会医学講座衛生学分野に改められた。平成12年4月1日に九州大学大学院医学系研究科は九州大学大学院医学研究院に改組された。平成15年3月31日井上教授は定年退官され、同年4月18日に名誉教授の称号を授けられた。
平成16年10月13日の教授会において衛生学分野は環境医学分野と呼称が改められた。
平成18年2月1日、九州大学大学院医学研究院病態機能内科学(旧第二内科)講師清原裕が井上教授の後任として、環境医学分野教授に任ぜられた。
清原教授は平成28年3月31日に定年退職し、平成28年4月1日に名誉教授の称号を授けられた。